昭和41年05月01日  朝の御理解



 真心の限りを、体全体で表していくような人柄、そういう信心をさせて頂きたいと思う。真心の限りを、体全体で表していく。昔私が、商売を致しておりますときに、店の一つの主義と言うか、スローガンと言うか、そういういろんな良い言葉のかなに、愛敬一つで二つ売れという、愛敬一つで二つ売る。この二つ売る、二つこう売らせて頂けれる、もうあそこ行ったら買わにゃおられん、と言う様なその愛敬と言うのは、ただ口だけの愛敬じゃつまらん。ほんとにその心から、心から利口にサービスする。
 愛敬よくサービスする。だから二つ買わなければおられんのであるけれども、もうあそこはとても利口だけれども、あそこは口ばっかりじゃからというのではない。やはり心が本当に心からにこやかに、心から有難いと言う心での愛敬であって、初めて二つ売る事の出来る様な、実績と言うものが出来る様に信心も同じ事。心の限り心の限りのいわゆる真心。それを体全体で表していくと言う様な信心になれば、神様が動きなさらん筈がない。いやそれならば、人徳もまた神徳も合わせて頂いて行く事が出来るだろう。
 口だけでいかに利口に言われても、それはおかげにならん。そこで、さあ自分の表現しておること、いうなら体で表しておることをです、果たしてこれ真心かなと、確かめてみなければいけない。真心とは真とは、どう言う様な事だろうと。これはあの、福岡の文雄先生が、もう十四、五年前の話ですよね。久富( ? )方ですたい。私共が子供の時でしたが、あそこで共励会がありよりました。
 あんときに、北野のある御信者さんが、あの親先生が真とか真心とかち言いなさるばってん大体どげなこっですか、て言うてその文雄さんに尋ねた。ここで修行しよる時分でしたが。それでまあ神様にそのことをお伺いさせて頂いたらね、真心とは鉄砲のようなもの、真とは鉄砲のようなものだったでしょうか、ちょっと忘れました。真心とは鉄砲のようなもんで、真とはその弾が、実弾を発射するようなものだと、言う様な意味の事を頂いて本当にそうだなと私を思い。
 そのそれを聞いた人も、成程そんなものでしょうね、真と真心とはそんなもんだと。寒いときに来客がある。毎日ほんとにお寒いことでございますと。寒いですねと口だけで言う、言うならだけではなくてです、ほんとにお寒いですね、寒かったでしょう、とティーバックの一つも持って行ってやるのが、真と真心が一緒に出たのだ、と言うわけなんですよね。はぁお寒うございますとばっかり言うたっちゃ、火鉢も持って行かんなら、それは、真心じゃないですよね。
 それがなされなければ。口で言うだけじゃない。それが体で現される。ね、例えなら体で表しておっても、今度は反対にです、真心がなかったら、例えばなら寒いからと言うて火鉢をそばに持って行ってやっても、これからいっちょ何かよかもんば貰うてやろうと言う様な、そういう思惑があってのものではいけんということ。手には良いえさを持っておりながらです、手なづけようとする。そして片一方には、犬殺しじゃないけれども、木刀もっとったんじゃ寄り付きゃしませんよね。
 いかにも口にはにこやかに、何かやるぞと言わんばっかりにこうしとるから、本とかと思うてよくよく見ると、後ろの方にはこう手が隠してある。それには言わば棒が握ってあるなら、なんでその犬なら犬が寄ってくるはずがない。ちゃんと分かる。私共の信心させて頂く事はもう、これもやっぱり十何年の私が頂いた御理解の中に、ゴマすり坊主がゴマすったと、味噌汁坊主が味噌つけたと、言う様な言葉を頂いた事がある。ね、ゴマすったっちゃいかん。
 だから自分がこうさせて頂きよるとが、真心のようであり、それが形で表されておるようであっても、果して惟ゴマすっておるのじゃなかろうかと、言う風に思うてみなけりゃいけんです。いや結果がです、味噌漬ける様な事であったならばです、やっぱり自分のは、あれはゴマすりよったんじゃ、真心からのものじゃなかったんじゃ、形だけのものであったんだと、悟らにゃいかんと私は思うですね。味噌漬ける様な事があったら。ね、ゴマすり坊主がゴマすった。
 味噌しる坊主が味噌しったと。ね、ゴマすったんじゃいかん。必ずそれは味噌つけるような結果になるだろう。心から、心からそれが思われ、それが体全体で表現されるとき、ね、心の中からにこやかに、心の底から有難うございますが、愛敬になって現れるときに、必ずその店は繁盛するだろう。同し買うならあそこまで。もうちっと遠かったっちゃ、他の店通り抜けてからでも、やはりそこに、買いに行くようなもの。いよいよ5月です。5月は緑の月と言われます。いわゆる爽やかな月です。ね。
 目に青葉もう時期です。山ほととぎす、初鰹かなんかという句がありますですね。そういうまぁ結構な時期。ですから本当に、この5月という月は特にです、私共のこの爽やかな、それこそコカコーラのころし文句じゃないですけれどもね、スカッと爽やかとそういう心の状態、そういう心の状態で信心をさせて頂きたい。昨日でした、やはりこの何ですね、皆さんもそんな体験がおありになるでしょう。始めはなんでもなかったんだけれど、段々あの、言った事を思い出すたんびんに、あの言葉が有難い事だった。
 有難い言葉であったとこう、始めの間はそうでもないけれども、段々その言葉が有難うなってくる、言葉があるでしょうが。あれはスカッと爽やかな言葉ですよ、きっと。けれどもです、いかにも爽やかな、言わばもうほんとに調子を、言われたことであってもです、始めの間は何でも、はぁなかなかお話しが上手だなと思うて聞きよるのだけれど、そのことが段々思い出すたんびに腹が立つと言った様な事がないですか。それを思い出すと、何とはなしに、不愉快になると言った様な事が。
 昨日ある方がお参りしてきた。ある方っていうのが、先日善導寺の親教会の御大祭でございましたから、御大祭にやっぱり一緒にお参りした方なんです。先生私あの本当に有難いお祭りじゃったばってん、お説教頂いて、ほんとに有難いお説教だったと。お話しも薬院の先生だから非常に上手だった。ところがあのなかにたった一言がです、ほんにお話しが上手だな、なんと素晴らしい、もうジェスチャーたっぷりで、お話になったことがです、後から思い出すと腹の立つということがあったんです。
 と言うてからここでお届け、お届けでお話しされるんですよ。どげなこつじゃったですか、ち言うたら、あの先生言いなさりましたでしょうがち、笑い声のあるときばっかりは、ほんな犬のごと、おおばふってからやってくる。ね、それこそ我が自分の願いごとのあるときにはそれこそ、猫なで声でニャオーち言うちからその、もうジェスチャーたっぷりでですたい、そのやってくるもんがある。
 なるほどあの、そげな話ふうに打ち出されました。けれどもいやしくもですよ何、前に伝えておる信者を、猫と見立てたり犬と見立てたことですから、私もそれをそん時はそう思うとった。お話しが上手なお話しの先生だな、と思うたけれども、それは言わばその信者をさして、猫に例えたり犬に例えたりした言葉だから、なるほどあれば思い出したら私、自分ば猫にされたごたる気がする。犬にされたごたる気がする。
 何でもなかったんだけれども思い出すと先生、腹の立ちますという人が、ほんにそうだな、言葉一つでも、ほんとに考えなければいけないなと私思うた。お参りになった方で、それを感じられた方なかったでしょうか。成程そげなん話しがありよりました。何かこっちが当て付けられたごとあった。いや当て付けられた、しかも当て付けられる分にはよかばってん、しかも猫に例えた。おれを犬に例えた。思えば思う程段々腹の立ってくるっちいうわけなんです。
 私は言葉一つでも、ほんとにやはり爽やかな、もんでなからにゃいけん。同時に私はその言葉がです、中身が信心でなからなきゃいけん。いわゆる実意丁寧それがおのずと、態度にも言葉にも表れてくるという、もんじゃなからなければいけない。昨日、吉井の波多野さんが、御祈念の後に参ってみえられた。そして色紙を持ってきなさった。親先生、私の姪が近いうちに結婚致しますと、別に花向けをしたいと。それでその、まぁ額縁を送りたい。中身を一つ何でもええから書いてやってくださいと。
 それで私は、もう信心のないお方に私が書いたものでいいでしょうかち。いいえ何でもいいですから書いてください。まぁ一言下手な字を書いた。それが私は信心のある人にならね、やはり何かこう信心のことでなからなきゃいかんから、信心のない人だから、と私思うて神様にお願いさせて頂いたら、これは句になっておるかどうか分からんけど、こう言う句を頂いた。分かるでしょ。和賀心とはいつも頂きます、和らぎ喜ぶ心と書いてある。「和賀心 願いなき身の 神参り」と頂きました。
 和賀心、願いなき身の 神参り。これは本当に信心をさせて頂く者は、一番の理想だと。例えば波多野さんが、もう十何年間椛目に参り、毎朝こうやって朝の御祈念にお参りしてみえる。段々信心を続けて行けば行く程に、自分の心が有難うなってくる。椛目通いが楽しゅうなって来る。もうあれば頼まんならんけん、これを願わんならんけん、というものではなくてです、それこそ願いなき身の神参りである。いやそう言うてもです、言葉にはこう申しますけれども、実を言うたらやはり痛いもありゃ痒いもある。
 願わなければおられん事は沢山あるけれどもです、いよいよ根本的なところにです、た、お願いするときだけの、お参りというのではなくてです、た、椛目通いが楽しいんだと。ね、ただ椛目通いをこうさせて頂いておると言う事が有難い。何とその爽やかな信心だろうかと私は思う。叔母さんがそうにゃ金光様の信心しなさる。もう毎朝十何年ち椛目通いしよんなさるげなが、何ば頼むことなんならと言う様な、思いをその姪御さんがおられるかもしれん。だから私がしとる信心とはこう言う様なものなんだと。
 またこういう信心を理想にしておるのだと、言う様な事を、まあ姪御さんに伝えたいという気持だろうか、いやその姪御さんにもです、この和賀心を勧めたいと言う様なものがこの中に感じられるです。ね、波多野さんが果たして、ならこの信心が出来ておられるかどうかそれは分からない。けれども私共毎日こうやってお参りしよるんだけれども、頼むことがあるけんだけで参りよるとじゃない、いやそれもあるけれど、ね、問題は自分の心の中に、その和らぎ喜ぶ心が段々大きゅうなっていく、広がっていく。
 有難い有難いから、家にはじっとしておられんのであり、朝参りでもさせて頂かなきゃおられんのであり、お礼を申しあげに、やはり一遍はお参りしなければおられんと言う様な信心にです、段々お互いがなっていかなければならない、そういう信心を目指さなければならない。特に私は、この5月にはいらせて頂いてです、思うこと。5月の月とは爽やかな月であり、緑の月とも言われる。為にはです、私共が心の限りを真心の限りを、心に感じそれを、体全体で表していけれるような信心。
 別にこれと言うて、こちらが願わなければならん、という特別のそうと言う事も、取り立ててないんだけれどもです、そう言う様な私信心が、なされて参ります、そこに焦点を置かせて頂き、自分のさせて頂いておる信心が、ゴマすり的な信心ではなかろうか。それでは結果、味噌つけるような結果にしかならん。確かめた上にも確かめてです、真心からの信心が、体全体で現されておるような信心を、今月は特に目指したいと思うのでございます。
   どうぞ。